匠技が光る日本のモケット

矢追社長よりご挨拶: 日本の織物の良さは、日本製という高付加価値だけでありません。 一本一本を丁寧に打ち込んだ魂の織物に出会い、椅子張りの奥深さを再認識しました。 フリーライターが取材した其のままを、編集無で、ご紹介いたします。

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 『知られざるパイル織物日本一 〜高野口の一流モケットメーカー〜』 

和歌山県、橋本市。国道24号線の飲食店舗などが立ち並ぶ市内メインストリートを抜けると、田んぼや畑が入り交じる長閑な地域にさしかかる。

高野口は、弘法大師によって開かれた仏教聖地「世界遺産 高野山」の麓に位置し、紀の川の恵みを受けたこの土地で古くから織物産業を発展させてきた。

その独自性は明治時代に飛躍的な発展をなしえ、今日の国内パイル織物の一代産地にまで成長した事は、一般的に実はあまり広くは知られてはいない。

「紀州製竿」「富有柿」「柿の葉寿司」といった名産品の品目に名を連ねる「パイル織物」。今回、そんな織物の地で時代とともに進化し走り続けるモケットメーカーでシンコーの盟友〈株式会社 野手〉様にスポットを当ててみようと思う。

0201-IMG_9876『時代の風に乗る高野口の織物産業 〜歴史と技術の変遷〜』

もともと江戸時代の頃より木綿織物が盛んだったというこの地域では、独特な織物産業の変遷が見てとれる。特に目を引くのは、明治時代以降の各時代に、地域産業に多大な影響を及ぼしてゆく人物の登場や技術の研究・開発の盛んさである。そして、それらが時代の波に乗って大きく成長してゆく姿はとても印象的だ。

国内シェア1位のシール織物産地の歴史を追ってみようと思う。

明治時代の始めに、前田安助氏創案の再織という特殊織物の製法は、木綿織物主流であった高野口の産業を一遍させ、川上ネルと呼ばれるほどに地域産業を新たなステージへと飛躍させた。アメリカへの輸出を目的とした高級手工業品として人気を集め、カーテンや家具の装飾として重宝された。

また、大正時代には西山定吉氏によるシール織物(パイル織物)の考案によって更に時代の風と共に産業も加速度的に発展する事となる。機械による大量生産にも対応する事ができるようになり、国内においても婦人服飾文化などに多大な影響を及ぼし、大正ロマンを語るに欠かせない商品として広く知られるようになった。アザラシの毛皮に似た布地は、独特な光沢感や風合いがあり、弾力性・保温性が高く高級感漂う素材として人気を博したのだ。

そして昭和の始め、ドイツより二重パイル織機の導入をすることによって生産を加速させ、昭和12年頃には戦前の最盛期を迎えた。0202-IMG_9969

戦後、原料糸の統制が撤廃された後に生産が再開されるようになって、朝鮮戦争の勃発に伴いモケットの衣料品としての需要が高まったり、アフリカ向けに人絹シールが輸出されるなど国外へ向けた生産も盛んに行われるようになった。

昭和30年頃、これ迄パイル地製作に多く使用されていた木綿や絹、人絹糸、羊毛にかわる、新素材アクリル製合成繊維の開発・研究が進められ、新しい織物としてアクリル製の糸が取り入れられるようになった。質感は絹で作った生地に似て格調高く、繊維開発の技術の高さをうかがうことができる。

昭和34年頃には当時流行していた婦人用コートや生活様式の西洋化に伴い椅子張用モケットなどが普及し始め、昭和40年代には今も現役で稼働しているスペインやベルギー製レピア織機などが導入されるようになった。両面パイル毛布などの寝装品やインテリア商品、衣料用品など用途の広がりに合わせ、ニーズを先取りした商品開発が行われるようになっていったのもこの時代からである。

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